我々のほとんどは、間違っていると分かっている認識論に支配されている。
論理は、因果関係についての脆弱なモデルなのである。
ベイトソン 現代心理学の祖の一人
USP原因説を否定することはできない理由
不登校の原因は本当にUSPによるものなのか?
まず原因という言葉自体について考えましょう。
世の中には自然科学と社会科学の2つがあるとしましょう。
自然科学は単純な現象においては原因と結果が明確。
たとえば、ボールを蹴ったのでボールが前に飛んだ。
原因と結果は明確。
ただし、地球温暖化のような複雑な現象になると原因論は科学者によって見解が分かれるようです。
他にも、たとえば「飛行機はなぜ飛ぶのか」などの原因・理由論は科学者の間で見解が分かれているそうです。
参考文献:99・9%は仮説~思いこみで判断しないための考え方~ (光文社新書) 竹内薫
複雑な事象においては諸説が入り乱れるのが自然な姿。
一方、社会科学においてはいつも事情は複雑です。
ボールを蹴れば前方に飛びます。
でも人間を蹴るとどうなるでしょうか?
逃げる場合もあれば、怒る場合もあるでしょう。
相手によって結果が変わる。
集団になればより複雑です。
たとえば、ある教師が何も言わずに学校をやめたとしましょう。
その場合、原因と結果がより分かりにくい。
本人がしゃべらなければ原因は推測するしかありません。
複雑な事象においては原因についての仮説が諸説入り乱れるのが常なのです。
不登校は言うまでもなく複雑な社会生活の中での事象です。
実験室の中で完結しません。
単純な物理学のようにはいきません。
もしくは、簡単な外科手術のようにはいかないのです。
なので、諸説が併存状態になります。
それが自然な姿。
なので、不登校は独特の感性が原因であるという説も否定はできないのです。
(明確な矛盾などを指摘されない限りは)
様々な説の採点で○▲×があるとして、×はほぼ消えることになります。
まずはここを抑えましょう。
説として否定することはできないのだと。
なぜUSP説?
次になぜ「USP説が一番合理的に説明できる説か」について説明します。
そして「なぜ一番役に立つ説か」についても。
他の説と比較することにより白黒つけていきましょう。
まず、不登校愛着障害説があります。
「不登校は親の育て方により子どもに愛着の傷がついているから起きた」というものです。
ほとんどの不登校支援はこの説によっています。
愛着に関する研究は元々、戦後の大戦後の孤児院の研究から始まりました。
そして、愛着理論は長年の研究で統計的に証明されています。
また、愛着障害というのは猿などの実験から科学的にも検証されています。
被験者となった猿には非常に気の毒ですが、おかげで科学として確立している。
実験の詳細などは心情的にここには書けないので気になる方は調べていただければと。
愛着理論は科学であり、統計的な裏付けもある。
しかし、愛着障害を不登校全般に拡大解釈しすぎるのはいかがなものでしょうか?
不登校のお子さんは孤児院で育ったのですか?
お母さんに抱かれないで育ったのですか?
生後すぐに訳あって「親戚の家に預けました」なら分かります。
しかし、たとえば「親がガミガミと干渉し過ぎて愛着の傷がついた」というのは拡大解釈しすぎでしょう。
拡大解釈をするのであれば、「USPにより子どもは社会で傷ついているので、愛着アプローチで不登校の子どもに接しましょう」でもいいわけです。
結果は同じ事になりますので。
どうせうまくいくならば、誰も傷つかずにすむほうが、実用的でしょう。
そもそも、不登校は愛着の傷説だと他の家も似たようなことをしているのに「なぜ我が家だけ?」の説明がつきません。
当事者の感覚としてはUSP説の方が圧倒的に説得力があります。
私の親と話してみればわかるでしょう(笑)
また、他の不登校の親御さんと話してみてもわかりますでしょう。
愛着の傷説では説明がつかないのです。
また、「不登校は学校が悪い説」もあります。
しかし、この説も不登校が全体の数%というのが説明できません。
本当に学校が悪いのであれば、不登校率が80%とかでないと説得力にかけるでしょう。
たとえば、極論ですが学校の先生が銃を乱射します。
それなら不登校は100%になります。原因と結果が明確。
しかし、なぜ不登校になる子とならない子がいるのか?
「学校が悪い」説だと説明ができないのです。
また、この説だと学校を無意味に敵に回している親御さんも多い。
もったいないと感じます。
そういう意味でもあまり役に立たない説でしょう。
もちろん、学校も変わるべきところはたくさんあります。
しかし「学校に改善点が多数あること」と「学校が原因であるということ」を混同してはいけないでしょう。
USP説ならたとえば「独特の感性があり、学校の矛盾に鋭く気づき、行く意味がわからないでモチベーションが低下し、失敗して親や先生に怒られてメンタルダウン」などと個々の子どもの事情から説明がつきます。
そこに対してみんなでケアすればいいという話で楽なのです。
他に「不登校は親の過干渉が原因説」というのもあります。
親が規範型であるために子どもは自分らしく生きられず、活力を失い不登校になるというものです。
規範型というのは「○○ねばならない」という思考のことです。
たとえば、「品行方正な優等生でなければならない」など。
しかし、これも「なぜ他の子は不登校にならないのか?」という疑問を解消できません。
兄弟が3人いたとして1人だけ不登校ということもよくあるのです。
また、不登校の親御さんは他の家に比べて著しく過干渉だったのか?
そんなこともないでしょう。
小学受験塾や中学受験塾などを見ればそうとは言い切れないことが一目瞭然なのです。
これも不登校という結果から無理にあてはめた説と言えるでしょう。
結果論に過ぎない。
他にも不登校発達障害説というのがあります。
この説の欠点はお医者さんにお会いしても、発達障害だと診断を受けない子が多いということです。
また、お医者さんにより診断が異なることが多い。そしてグレーゾーンや軽度という場合も多い。
この説は不登校の一部を説明することは出来ても全体を説明することが出来ません。
たとえば、学習障害などは原因と結果の説明がシンプルです。
誰もが納得。
書字障害などがあれば学校は苦しすぎる。それは行きたくない。
なので、学校がテストや課題をタブレットで提出可にすればいいだけ。
しかし、多くはお医者さんに「異常なし」か「発達障害のグレーゾーン」とか「軽度」と診断されます。
独特の感性説はグレーゾーンや異常なしや軽度にも対応できる概念です。
そういう意味でもUSP説が一番優れていると言えるでしょう。
また、発達障害のグレーゾーンや軽度と重度を混同することは問題だと思います。
子どもの意欲を低下させることがあるからです。
そもそも不登校の原因など無いのでは説?
さて、不登校は何十万人もいて千差万別です。
なので、共通する不登校の原因など無いという人もいます。
これは一理あります。
しかし、人は原因を求める生き物なのです。(冒頭の認識論)
原因などない説は何も言っていないに等しく、現実には何の役に立たない説。
なぜなら人は「不登校の原因は考えない」と言いつつ偏った見方をしがちだから。
「原因は考えない」と言っている某不登校支援サービスの方も「親子関係が原因」「親の育て方が原因」と言っているではありませんか。
そうしたことは枚挙にいとまがありません。
なぜなら、人の脳は手抜きをしがちなので人は原因から離れることができないから。
知らぬ間に分かりやすいストーリーを作ってしまいがち。
先入観を持たずにそれぞれの子どもに向き合うなどは絵に描いた餅なのです。
ほとんどの人はそんなに理性的ではありませんし、脳のスタミナがあるわけでもありません。
そんな人がいたら出世してしまい、現場でお子さんや保護者さんと話すこともないでしょう。
なので、不登校関係者としては「説得力があり、役に立つ説」を示すことが社会への勤めだと思います。
そもそも心理学や社会学では共同幻想というものがあります。
共同幻想とはたとえば「アメリカ人は○○だ」とか「ひろゆきは○○だ」というようなものです。
人は共同幻想を持つことで安心して暮らすことができます。
なぜなら、わからないものは怖い。
「学校の先生は生徒の味方だ」とか「お医者さんは不正をしない」というような共同幻想を持っているから安心して生きていけるわけです。
いちいち自分の頭でそれぞれのケースを毎日検証していては脳が疲れて鬱になってしまいます。
「原因は千差万別」説は立派なお題目ではありますが、現実的では無いのです。
くり返しになりますが脳は手抜きしたがるからです。
勉強を嫌がる子が多いのもこれが理由です。
不登校に関しては「不登校は親の育て方」「不登校は発達障害(一部は正しい)」「不登校は学校のせい」などの共同幻想が蔓延しています。
多くの人は分かったことにしたいのです。でないと、人間の心理の構造上しんどさに耐えられない。
「不登校はUSP」という認識が広がれば、学校の配慮も進むでしょうし、多様な学びも認められるでしょう。学校に戻れる子も増えるでしょう。
親も「子育ての失敗を挽回する敗軍の将」ではなく前向きに子どもに向き合える。
前向きに子どもの支援に取り組むのと後ろ向きに取り組むのでは結果に大きな差が生まれます。
何事もモチベーションで左右されるものです。
本人も独特の感性をどう活かそうかという視点で周りから見てもらえるでしょう。
そうしたら本人と話すのも楽。
「弱い子」と「かかわいそうな子」と接すると反発を招くからです。
イギリスの元首相のチャーチルにこんな名言があります。
「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては。」
USP理論も同じです。
「USP理論は最悪の不登校理論である。ただし、過去の他のすべての理論を除いては。」(早野智則)
ただし、私自身は本気でUSP理論を確信しています。
もし親の子育てや発達障害が原因であれば、昔よりも不登校が増えていることが説明できないからです。
社会が自由に豊かになってきて、独特な感性の子が不登校という形で無意識のうちに反抗するというケースが増えたのだと見ています。
ここで単純に学校が悪いとする罠にはまってはいけません。
それとこれは別の話です。
多くの子はより複雑で学校に反発しつつも、学校に行きたがってもいるからです。
(全てではないことに注意)
USPな子の葛藤を親御さん経由で解消すればいいだけの話です。
さて、不登校の原因について社会が豊かになったこととしてもいいと思われた方もいるかもしれません。
それも一理あります。
しかし、昭和初期のクーラーやTVなどが無い時代に戻ることは不可能でしょう。
原因論としては説得力がありますが、役に立たない論なのです。
役に立たない論では意味がありません。
USP理論であればより自由に豊かになりながら、不登校を解決することが出来るのです。
論証の補足1:なぜ親のせいになりがちなのか?①
心理学や精神医学は元々超重症な患者の研究から始まりました。
精神科やカウンセリングが身近になったのはつい最近の話です。
さて、昔の重症な患者さんの中には明らかに家庭環境が原因だという例が多かった。
今でもたとえば、女子少年院の半数が家庭内で虐待されてきたというデータがあります。
100%という説もあります。
ここで質問なのですが、
あなたはどちらの精神科医に見てもらいたいですか?
A:女子少年院の生徒などを立派に更正させてきたプロ中のプロのベテラン
B:重症な患者などはほとんど見たことがないプロといえばプロの新人
Aと答える人が多いでしょう。
しかし、Aはキャリア的に「家庭が悪い」論になりがちなのです。
それはそうでしょう。誰だってそうなる。
そして、精神科が身近になり不登校の診断などもする時にも同じプロセスを踏みます。
類推適用するわけです。
難しいケースでうまくいったのですから、より簡単なケースでもうまくいくはずです。
悪気はいっさいなく、善意しかありません。
実際、すごい先生なのでうまくいくわけです。
そして新人の精神科医や心理士もAから指導を受けたいと考えます。
それによりそういった考え方が広まることになるのです。
これが誰も悪気なく、親が悪い論が広まった背景の1つ目です。
そもそも病院は病気の人が行くところです。
子どもを検査して異常がないし、いじめの話などもなければ「親か?」となりがちなのです。
ロジカルシンキングの弊害ですね。システム思考だとこうはなりません。
論証の補足2:なぜ親のせいになりがちなのか?②
次に心理学のそもそもの成り立ちを考えてみましょう。
心理士がやるのが心理療法、精神科医がやるのが精神療法。
民間がやるのが民間療法。元は同じです。
伝統的な心理学は「過去を掘り下げて問題を発見し、解決する」というものです。
最初から過去に問題があるという前提なのです。
それにより心理学をかじると過去のせいにしがちです。
そして親のせいになりがちなのです。
過去には親くらいしか登場しないから。
医者も異常なしと言っていて、学校でも問題が無ければ、成育歴かとなる。
私などは高校生の頃に心理学の本を読んで「親のせいだ」と当たってしまいました。
母親は泣いておりました。
とはいえ、冷静に考えるとそんなに悪い子育てをされた覚えもない(笑)
「現在に問題があれば過去に問題があるはずだ」という視点で見れば、いくらでも親の欠点が見つかるものです。
最初から犯人ありきの捜査になってしまっている。
そういった伝統的な心理学の大先生が上にいるわけで、それが拡大再生産されるというわけです。
それがダメかと言うとそんなことはありません。
伝統的な大先生は①の場合と同じく重症なケースで実績を認められた場合も多いわけでして。
自分のパラダイムは疑いにくいからです。
功労者である大先生が悪いわけでもないのです。
くり返しになりますがこれはロジカルシンキングの弊害です。
システム思考だとこうはなりません。
論証の補足3:なぜ親のせいになりがちなのか?③
親のせいになりがちな理由はまだあります。
たとえば、不登校の親御さんが支援者になることがあります。
自分の子どもの不登校を解決し、さらに支援者になる。
優秀で善良な方々です。素晴らしいことです。
さて、優秀な人というのは自分原因論で考える傾向があります。
たとえば、試験の成績が悪ければ自分が原因だと考えます。
会社で成績が悪ければ自分が原因だと考えます。
それにより努力して成功していくわけです。
私のように人のせいだと考えていては優秀になれません(笑)
私も会社員の時に口酸っぱく言われました。
会社の落ち度も「自分のせいだ」と考えれば視野が広がり社長になれるぞと。
そういった方は我が子の不登校でも「自分が原因」とも考えます。
私の子育ての○○が悪かったのだと。
そしてめでたくうまくいく。
なので、自信を持ってそのことを広く発信します。
「親である私の○○が悪かった。あなたも変わろう」と。
結果、同じような自分原因説の親御さんの家庭がうまくいきます。
なんせ優秀で努力家なのですから。
ますます親の自分原因説は強くなるというわけです。
しかし、これは論理の混同です。
たとえば、会社で部署の落ち度も自分のせいだと考えれば視野が広がり課長になれる。
これは正しい。
問題に対処する準備ができているわけで。少なくとも成長する。
しかし、厳密には部署の落ち度は自分以外の誰かが原因でしょう(笑)
原因と責任は違うのです。
さて、次が「親のせいだ」論の最重要な部分です。
このページで最重要。
今の混同についてより考えてみましょう。
悩んでいる人は大体が混同しているからです。
論証の補足4:なぜ親のせいになりがちなのか?④
さて、ここまで読まれてあなたはこんな疑問を持ちませんでしたか?
「親や家庭のせいだ論でもうまくいっているじゃないか」と。
そうなのです。ここが最大の落とし穴。
うまくいっているからそれ以上考える必要がない。
考えるのは私のような変わった人間だけ。
さて、ここが混同しがちな点なのです。
くり返しになりますが、このページの最重要ポイントです。
うまくいったからといって原因の推定が正しいわけではない。
まくいくことと原因の推定の正しさは違う‼
一部の心理学では「原因と解決は関係がない」とすら言われるのです。
ん、「どういうこと?」となりますよね。
たとえば、①~③のケースで全て愛着アプローチを不登校の家庭に適応して不登校の子が学校に戻ったとしましょう。
女子少年院の子も普通の家庭で育った子も同じ愛着アプローチでうまくいったと。
しかし、それぞれの原因は違います。
片方は家庭環境で片方は独特の感性により自信をなくしたとも言えるのです。
「うまくいったこと」と「原因への見立ての正しさ」は全く別のもの。
そう。全く別の物なのです。
他の例でいくと、東北の大地震の時に「きずな」という言葉が流行りました。
きずなというのは愛着と同じ意味です。
そして、きずなパワーで被災した方が元気になられたとしましょう。
であれば、東北の方々は愛着障害だったんですか?
家庭環境が悪かったんですか?
違いますよね?
どう見ても地震のせいですよね(笑)
これが原因と解決は無関係という意味です。
また、ジャンプなどのマンガでは「努力、友情、勝利」がテーマと言われています。
主人公が努力し、ピンチになるも、友情パワーで覚醒し、勝利する話が多い。
友情というのもきずなとか愛着に近い意味があります。
さて友情パワーでピンチを乗り越えた主人公たち。
彼らは愛着障害なんですか?
家庭環境が悪かったんですか?
そうとも言い切れないでしょう。
(ナルトなどは親がいない設定ですが)
多くは単にピンチで苦しんでいただけ(笑)
ピンチの時は愛着アプローチを使えばいい。
(他でもいいのですが例えばの話です)
そして、ピンチの原因は家庭環境の場合もあれば、独特な感性により苦しんでいるという場合もある。
現代の不登校界隈では後者の方が圧倒的に多いでしょう。
「支援が成功したこと」と「支援者の原因に対する見立ての正しさ」は全くの別物ということです。
普通の支援者は支援が成功して喜んで終わってしまうのです。
うまくいっているので前提を疑うこともない。
また余談ですが、子どもが思春期で苦しんだ時に「親が悪い」と言うのを真剣に聞くのと「それを正しい」と認めることは別の話。
(正しくないと言葉で否定するのは悪手ですが)
「受容する」のと「正しいと同意する」のはまた別の話なのです。
念のため。
子どもが「サンタはいる」と言っても否定はしないでしょう。
でも大人は正しいと心から認定することもないでしょう。
それと同じです。
こういった話は大学の先生方が認識論でしていることでもあります。
ただ難解すぎる。
そこで私がお話ししているわけです。
最後に
親の育て方が悪かったと自分に鞭をうちつつ子どもを目的地に導くのも立派。
親の育て方は無関係と自分に鞭をうたずに子どもを目的地に導くのも立派。
どっちでもいいと思います。